仲川遥香 日本に戻る事はある?

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出典元: 仲川遥香 (C)日刊スポーツ
仲川遥香、日本に戻るとしたら、いつ?
JKT48卒業後、帰国せずにそのまま、インドネシアの首都ジャカルタを拠点に、タレントとして活躍中の仲川遥香(27)が、一時帰国しました。SNSで号泣マークの絵文字が連投されていたのは、姉の訃報が原因?
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仲川遥香、日本に戻る。一時帰国の理由は、姉の死去だった。

現在、インドネシアの首都ジャカルタを拠点に、タレントとして活躍中の元JKT48仲川遥香(27)。

JKT48を卒業後も帰国せず、移住して7年間、タレントとしての活動を続けてきました

誕生日の2月10日には、ファンミーティングを行い、多くの人から祝福を受けたばかり。

そんな仲川遥香の元に、姉の訃報が飛び込みました。

一時帰国の理由。

 2019年5月4日、仲川遥香の実姉(一般人の為、名前は非公表)が、2012年に出産した子どもを残し、28歳の若さで亡くなりました。

4日前後、仲川遥香のSNSでは号泣マークの絵文字が連投続きで、ファンの間で心配する声が相次ぎます。

ジャカルタから日本まで7時間かけて帰国した仲川遥香は、11日夜、自身のSNSを更新し、今月4日に、28歳とまだ若い実姉が亡くなったことを報告しました。

「実は日本に帰ってました。先週5月4日に私の姉が亡くなりました。私の大切なお姉ちゃんが亡くなったと聞いて急いで日本に戻りました」
出典元: 仲川遥香 (C)日刊スポーツ

12日に更新したインスタグラムには、幼少時の姉とのツーショット写真を掲載。
小さい頃からいつもお姉ちゃんにくっつき虫でした、と書き込んでいる。

現時点では、お姉さんの死因、病名などの詳細が非公表の為、憶測でしかありませんが、仲川遥香の過去の投稿を見ても、特にそれらしき記述が見当たらない為、「突然死」だったのではないか、とネット上での書き込みが絶えません。

なんにしても、まだ28歳と若く、お子さんもいらっしゃったという姉の訃報により、仲川遥香は、ジャカルタから一時帰国することになりました。

仲川遥香、日本に戻る可能性があるとしたら?

仲川遥香のプロフィール。

2006年、「第三期AKB48追加メンバーオーディション」に合格後、AKB48の3期生に加わりますが、同級で親友でもあった前田敦子(当時のAKB48のトップ)の卒業を機に、自身も前に進もうと決意し、秋元康プロデューサーに直談判。

次のステージは日本じゃないという自身の直感を信じ、「いい子ばかりで、とても楽しかった」というジャカルタ公演でのJKTメンバーを慕って、2012年、JKT48に移籍します。

東京ドーム初日公演で移籍のことが公表されると、翌月にはJKT48劇場にてデビュー。

翌年の2013年、インドネシア版「恋するフォーチュンクッキー」でセンターを務め、並行して「渡り廊下走り隊」のメンバーとしても活躍(2014年2月解散)。

2015年、チームTのキャプテンに就任するも、翌年2016年、「JKT48リクエストアワーBEST30」にて卒業することを発表し、発言通り、年内にJKT48を卒業して現在に至ります。

愛称は「はるごん」「はるさん」「はるか」「ごんちゃん」など。

AKB48では選抜メンバーにすら入れなかった仲川遥香ですが、JKT48では1枚目から15枚目まで、シングルはすべて選抜入りし、現地の企業CMにも多数出演するなどして国民的人気タレントに成長します。
テレビ番組にもひっぱりだこで、年収のことを聞かれると、即座に1000万円を超えていることを暴露して周囲を驚かせることも。
2017年には、「ツイッターで影響力がある世界の女性15人(英国マーケティング会社発表)」では、7位にランクイン
(人気歌手ブリトニー・スピアーズ、米国民主党議員ヒラリー・クリントンを上回る)

仲川遥香の姉と家族。

 家族を大切にする人が多いインドネシア人。
こちらには家族は来ないの?
そう尋ねられるたび、家庭の事情を抱えて育った仲川遥香は「恥ずかしさ」から、家族について答える勇気が出なかったと語っています。
「母の日」「父の日」に、それを隠して対応していたことを、「すみません」とファンに謝罪‫しています。

3歳の頃に両親は離婚し、子どもたちは父親に引き取られました。

物心ついた頃から、もっぱら祖母が母親代わりを、忙しくてあまり家に居なかった父親の代わりを、引き受けてくれていたそうで、彼女自身は実母の顔を覚えていないようです。

その祖母が体調を崩して入院した時には、仲川遥香は児童養護施設に入ります
でもそこのスタッフが優しくて、友人もできたせいか、当時はそこでの暮らしが楽しかったようです。

そこに居た子は全員が同じ気持ちで暮らしていたといいます。

逆に、実姉の方が、自分の妹のように思えたぐらいだとか。

父親は「元プロレスラー」。

仲川遥香本人による告白ですが、素性が知れない父親に対しての言及が「元プロレスラー」とのことで、同じ名字から「中川浩二」氏の名前が挙げられましたが、これを中川本人が否定。

仲川遥香の名前も知らないとのことで、彼女の父親捜しはふりだしに戻ります。
現役時代のリングネームも特定されていないんだとかで、謎ですね。

学生時分は辛かったし、寂しかったと明かす。

両親には頼れず、おばあちゃんにも負担をかけれない。

小学3年生という幼い頃から、遠足などの行事は、自分でお弁当を作ったという仲川遥香。

自立心旺盛なのが窺えますが、やっぱり、この年頃は、家族の手作り弁当が食べたかったはずだと思います。

第4子が弟だった以外は全員女子という5人姉妹の中で、2番目・次女として生まれた仲川遥香は、先日、大好きな長女・姉を亡くしました。

夜遅くになると、自転車で駅まで迎えにきてくれたといいます。

「いつも優しいお姉ちゃん。小さい頃からいつも側にいたお姉ちゃんがもう側にいて一緒に笑ったり喧嘩したりできなくなる。今この文を書いているだけでも涙が止まりません」と沈痛な思いをつづった。「いなくなるなんて考えてもなかった」
「お姉ちゃん大好きだよ。本当にありがとう。また生まれ変わっても私のお姉ちゃんでいてほしいなっ」と結んだ。
出典元: Haruka Nakagawa 仲川遥香 (C) Twitter

家族がたくさんいて良かったなと思えるようになったことを不思議がると同時に、とても落ち着くと語る仲川遥香の夢は、仕事をして、すごく大きな家を建てることだったようです。

いつか皆が結婚したら、その家族と両親と祖母と、40人くらいで住んで、仲川家48と名乗りたいのだとか。

「そんなことができたら、楽しいだろうなあ…」
以前語った仲川遥香の夢に、大好きな姉が含まれることはなくなりました。

仲川遥香、日本に帰国する可能性はある?

日本には、一度は本帰国しようと思ったようです。

姉が亡くなる時、ジャカルタに居た仲川遥香は、姉がいる病院にすぐに駆けつけることができず、後悔したからのようです。

でも、今では本帰国は「ない」と思っていることも、ハッキリと話しています。
今回のことで帰国しても姉が喜ばないと、自分がジャカルタで活動していくことを応援してくれたことを続けて話し、今まで通り、ジャカルタに戻って活動していく決意を語っています。

仲川遥香、日本に戻るより、インドネシア?

日本の当たり前が通じない!

日本とはすべてのことが違ったと、カルチャーショックを受け続けたことを話す仲川遥香。

到着3日目にして、アメーバ赤痢という病気に感染してしまったことを打ち明けます。

朝目覚めると、猛烈な吐き気と腹痛に襲われて苦しんだ仲川遥香に、この国ではポピュラーな病気、歓迎されている証拠だとの周囲からの慰めにあいますが、それで気持ちを切り替えたというのも、なんて前向きだったのでしょうか。

第一の壁は「言葉」。そして「文化=カルチャー」の違い。

どこに招かれても上手く話すことができず、言葉‌が通じず、仕事も軌道に乗らずで、せっかくインドネシアに来たのに、日本にいるのと同じで中途半端なまま。

現地では日本人スタッフとだけ行動するというワンパターンさを抜けきれなかったせいでしょう。

メンバーとは打ち解けられなかったのも、仕方がありません。

AKB48の選抜メンバーから外れたことで、自信を失くし、諦めることに慣れていたと、挑戦から逃げる癖がついていたと、当時を振り返って話す仲川遥香は、強くなった証拠なのでしょう。

年末年始の実家帰りを早々に切り上げ、ジャカルタに舞い戻る。

気遣うメンバーから旅行に誘われた仲川遥香は、うれしくてすぐに行くと返事をしたそうです。

それが打ち解けるきっかけとなります。

「ただ、旅行先のコテージで出てきたのは、メンバーのお母さんが作ってくれた食べたこともないインドネシア料理ばかり。腹をくくって現地の人と同じように手づかみで何でも口に運びました。すると、メンバーも家族も『手を使って食事をする日本人は見たことがない』ととても喜んでくれ、距離がぐんと近づきました」
出典元: 元AKB48仲川遥香 インドネシアでなぜ大ブレーク (C)NIKKEI STYLE

独学で学んだインドネシア語、たった半年で自由に話せるまでに上達

語学学校に通った訳でも、教科書をたくさん購入した訳でもなく、ただとにかく、聞きまくったといいます。

それが外国語を上達させるポイントだとか。

会話を聞くのはもちろんのこと、分からないことがあったら、とにかく相手が嫌がるまで聞きまくります。

そうすると、次第に言葉が頭の中に入ってくるのだとか。

習うより、慣れろ、これを実践で勝ち得たということですね。

「覚えた言葉は間違っていてもいいので、どんどん使うようにしました。とにかく言葉を使えなければ話にならないので必死でした」
出典元: 元AKB48仲川遥香 インドネシアでなぜ大ブレーク (C)NIKKEI STYLE

インドネシアへの移籍は、自分を見つめ直し、成長するきっかけとなったようです。

仲川遥香、日本に戻るより、ジャカルタ?

話し合うことで、一つになることができた。

移住して3年目ともなると、現地でも人気がジワリと出てきて、周りに気を配れるようになるほどに、余裕が生まれてきたという仲川遥香は、新しく加わった後輩の指導にも当たるようになります。

ダンスや歌のレッスンを嫌がってばかりの後輩もいたといいますから、ちゃんと「怒る」ことで知られる仲川遥香の指導には、熱がこもったことでしょう。

でも、海外の人間は、日本とは違って、怒られることが、基本好きではありません。

なかなかついてきてくれないからと厳しくしてしまい、一時期、メンバー全員から嫌われてしまったことがあったというのも、頷ける話です。

「それでも何が嫌だったのか、なぜ練習が必要なのか、どんな目標を持っているかを話し合う場を設けることで、一つになることができました」
出典元: 元AKB48仲川遥香 インドネシアでなぜ大ブレーク (C)NIKKEI STYLE

トーク番組でのアドリブが受け、人気番組への出演依頼が急増。

曲を披露した後に、司会者とトークを繰り広げる番組で、仲川遥香が必死でアドリブを連発して場を盛り上げます。

司会者へのいたずらや、セットにあったお菓子を食べたりなど、他のメンバーが緊張してる分、なんとかしなければと仲川遥香がとった道は、観客からの爆笑を誘いました。

仲川遥香が使う片言のインドネシア語は、メンバーから直接聞いた、スラング混じりの単語ばかり。

それを面白がってくれたのだというのが、彼女なりの解釈です。

お笑いのような、受け狙いのアイドルから始まったにせよ、人気に火がついたのなら、結果オーライでしょうか。

仲川遥香のアドリブが功を奏し、自分たちを売り出すことに見事成功したJKT48に、出演依頼が相次ぎ、国民的な人気番組からも声がかかるようになっていきます。

JKT48を卒業後は、女優業に挑戦。

後輩の育成がひと段落すると、仲川遥香はJKT48を卒業し、女優業にも挑戦していきます。

現地での生活は充実しているのか、世界には私の知らないことがたくさんあると、色々な国でたくさんのことを経験したいと豊富を語り、自分と同じ20~30代の人たちに向けて、チャンスは待っているだけでなく、ぜひ自分からつかみ取りに行ってほしいと、メッセージも送っています。

このように、ジャカルタで、たくさんの家族のような人たちに出会えたこと、そして向こうでの暮らしが幸せで満たされているのだということを、その言葉の力強さから窺わせた。

日本にいた時よりも、何倍も強くなった。

インドネシアに来て、強くなったと話す仲川遥香。

この国が本当に大好きだと力説しているところをみると、やはり日本に戻る意思は「ない」のかもしれません

仲川遥香 日本 戻る 仲川遥香の画像

出典元: 仲川遥香 (C)日刊スポーツ

仲川遥香、日本に戻る線って、本当にもうないの?

ジャカルタで活動を継続したい。

来週復帰したいと、早くもやる気満々なご様子。

もう少し、ジャカルタで頑張りたい、その強い願いは、姉の気持ちを汲み取ってもいるからなんでしょう。

自分のことを見守ってください。

これからもよろしくお願いします、と挨拶していました。

「人生は一度きりでいついなくなるかわからない。だから後悔しないで生きていかないといけないと思いました。当たり前に明日があると思ってはいけないなって。だから1日1日を大切に生きなきゃいけない。お姉ちゃんの分も私は大切に生きていきます」
出典元: Haruka Nakagawa 仲川遥香 (C) Twitter

 仲川遥香、日本に戻るより幸せそう。
辛く時にも支えてくれたJKT48メンバーやスタッフたちに感謝し、姉の分も大切に生きていく、との決意を表面し、今後の活動については、「様子を見ながら始めたいと思います」と、継続する旨のコメントを残しています。